英仏第二次百年戦争

2014年01月10日 20:12

 

 



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英仏第二次百年戦争のまとめです。


ウィリアム王戦争のウィリアム王とは、名誉革命でジェームズ2世の娘、メアリ2世とともに即位したオランダ総督ウィレム3世(ウィリアム3世)

二人には子供がいなかったため、メアリ2世の妹がアン女王として即位

ジョージ王戦争のジョージとはハノーファー朝のジョージ2世でウォルポールが辞任した時の王


この三人は、スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争の話題ではあまり名前が出てこず、名誉革命の流れで出てくるので要確認。

 

第二次英仏百年戦争はイギリス名誉革命が完了した直後、つまりジェームズ2世が追放され、ウィリアム3世・メアリ2世夫婦の共同統治体制となり、革命中に出された「権利の宣言」が「権利章典」として発布された直後から始まったとされます※


アーヘンの和約の年代は、恐らく丸暗記しているであろうウェストファリア条約(1648)の丁度100年後にあたる、と覚えておくのがベターです。


ウェストファリア条約は30年戦争(1618〜1648)の講和条約ですが、オランダ独立戦争に端を発する80年戦争(1568〜1648)の講和条約でもあると覚えておいた方が前後関係がつながります


オーストリア継承戦争は名前こそついていないものの8年間なので、9年戦争、7年戦争にはさまれていると覚えておくとウェストファリア→アーヘン→オーストリア継承戦争の開始年と容易に辿り着けると思います。


イギリス市民革命、フランス絶対王政を学習する際に、裏で英仏第二次百年戦争が行われているということを頭に入れて学習すると効率が良いかと思います(教科書などもまったく別の話題として扱われることが多いので)

 

※「権利章典」は1689年に出されましたが、同年ロシア(ピョートル1世)と清(康煕帝)の間にネルチンスク条約が結ばれました。その後ピョートル1世は北方戦争を1700年に始めることになります。

 

この年代は康煕帝、ピョートル1世、ルイ14世、少し遅れてフリードリヒ2世、マリア・テレジア、と清朝三賢帝、西欧の絶対王政や啓蒙専制君主を代表する君主が並立している時期なので、英仏第二次百年戦争開始時の権利章典とネルチンスク条約を起点として前後左右の関係を把握すると良いでしょう。

前後の「後」はイギリス産業革命・アメリカ独立戦争・フランス革命・ロシアのエカチェリーナ2世、「前」はイギリス清教徒革命・名誉革命・フランスユグノー戦争。ということになるでしょうか。

 

「前」の学習で少し役立つかもしれない年代を一つ

 

1661年です。

 

この年はフランスでルイ14世(太陽王)が親政を開始し、清朝では康煕帝が即位しました。

覚え方は「ヒーロー・ルイ」です。誰にとってのヒーローだったでしょうか?それはイギリスのチャールズ2世ですね。

チャールズ2世は清教徒革命後の王政復古で1660年に亡命先のフランスから帰国しましたが、亡命中に親政開始前(マザラン宰相存命中)の(絶対王政が育まれつつあった)ルイ14世を間近で見ながら暮らしたため、王政復古後にカトリックの復活や絶対王政気味の政治を断行することになるのです。ルイ14世の親政開始の一年前が王政復古なので「前」の鍵となる年代として1661年を挙げておきます。

 

余談ですが、プラッシーの戦いと同年、中国では乾隆帝が貿易港を広州一港に限定しました。



 

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